※※※※※
もうすぐ定時の17時になろうとしている。
律樹の方を見た。
仕事をしている時は、当然真面目に取り組んでいる律樹。
──やっぱり、仕事をしている時の顔、カッコイイなあ〜
そう思いながら、
事務所の壁に掛けられた時計を見ていると、
定時を知らせるチャイムが鳴った。
その下から律樹がこちらを見ている。
バチッと目が合ってしまった!
スッと目線を外し、私は帰り支度を始めた。
──今日、話すのかなあ?
とりあえず、キリの良い所で今日は早めに帰ろう
長岡さんに、「私今日は、定時で帰りますね」と言うと、
「うん、みありちゃん、お疲れ様〜」と。
律樹の方をチラッと見ると、まだこちらを見ている。
すると、長岡さんも気づいて、
「塩谷課長、なんだか、みありちゃんのことをジッと見てる?」と言われた。
「いや〜あちらの方を見てるんじゃないですか?」と、私を通り越して後ろを見てるのだと、私は後方を指差した。
「ん? みありちゃんは、塩谷課長のこと、タイプじゃないの?」と聞かれた。
──そりゃあ、タイプかどうかと聞かれたら、
めちゃくちゃタイプですよ!
4年間もお付き合いしていたのですからね〜
とは、言えない……
「う〜ん、どうかな〜」と、笑って誤魔化した。
すると、長岡さんは、私の額に手を当てて、
「熱はないわね? でも、みありちゃん今日は、なんだか少し変よね?」と言われた。
長岡さんには、私の態度がおかしい事がバレバレのようだ。
だって、いつもなら、『イケメンですね〜!』と長岡さんと一緒に盛り上がるのが常だもの。
そりゃあそうだ。
「ハハッ、そうですか? ちょっと朝から体調がイマイチだからかな〜」と言うと、
「そっか、じゃあ今日は、早めに休んだ方が良いわね」と言ってくださった。
「はい! そうしますね」
「では、お先に失礼します」と、
皆さんにご挨拶してから、部署を出た。
「お疲れ様〜」
「「お疲れ様でした」」
長い廊下を歩いてエレベーターまで行くと、
後ろから、「お疲れ!」と言う声がした。
──えっ、嘘! 律樹だ! 早っ!
「お疲れ様です」と言うと、
耳元で、
「ちょっと、付き合って!」と言った。
「え?」と顔を見ると、
「話そう!」と言われた。
──やっぱり今日なのね〜
その後、続々と帰る人たちがエレベーター前に集まって来たので、
「分かりました」とだけ言った。
このまま、逃げたところで、
これから毎日顔を合わせるのだもの。
──ちゃんと話さなきゃ……
エレベーターで1階まで降りて、律樹の後をゆっくり付いて歩く。
何となく3歩程後ろを歩く……
そのまま会社の外に出た。
人の波は、右側の駅の方へと向かって行く。
律樹は、反対に左の方向へと、しばらく歩いた。
すると、突然立ち止まって振り向き、
「いつまで離れて歩くつもり?」と言った。
「だって……どこまで行くんですか?」と聞くと、
律樹は、こちらに向かって歩いて来た。
そして、「タクシーに乗ろう!」と、たまたま来たタクシーに手を挙げて停めた。
2人で乗り込み、何やらスマホを見ながら運転手さんに住所を告げているようだ。
──気まずい……
外の景色を見ながら、無言のままタクシーで20分ほど走っただろうか、
到着したのは、創作料理の居酒屋さんのようだ。
今日は、10月1日、月初めの火曜日だからか、空いているようで、すぐに案内された。
靴を脱いで靴箱に入れ、鍵を掛けるシステムだ。
銭湯などで使われている風呂屋錠と言われる木の鍵が可愛い。
律樹は、チラッと私のパンプスを見ている。
そして、
「相変わらず小さい足だな」と笑っている。
23センチだから、自分では、さほど小さくもないと思っているが、私も律樹の革靴を見た。
「そんなことないよ! てか、デカっ! また足大きくなったんじゃないの?」と思わず声に出して言ってしまった。
「デカっ! って女の子が言うな! 27.5だし」と笑っている。
「なんで?」と聞くと、
「
大きいと言いなさい!」と言う。
「だから、なんで?」
「なんか下品」と言われた。
「
女の子だからって男女差別!」
「ハハッ、
女の子は受け入れたんだ!」と笑っている。
「良いじゃん!
女の子だもん」
「ハハッ、だな」
律樹は、変わらず絡んで来る。
それに、背が高いから、足も大きいのだろうけど、しばらく会わない間に、そんな記憶すら薄れかけていた。
敢えて、律樹との思い出は、記憶から消さなければいけないと思ってしまっていたからだ。
無理に忘れようとなんて、しなくても良いのに……
そして、スタッフさんに案内されて廊下を進む。
完全個室になっているようだ。
お部屋は、掘り炬燵になっている。
「こちらでお願いします」
「「ありがとうございます」」
机のどこに座るかが問題だ。
2人だから小さい正方形の机があるだけだ。
「みあり そっちに座る?」と律樹に言われたが、
「あ、いえ、
課長さんが奥へどうぞ」と言うと、
「課長は、やめろ!」と笑いながら言った。
──そうだけど、何と呼べばいいのか困惑しているんだもの
「だって課長だもん」
とりあえず、律樹が上着を脱ごうとしているので、それを私は無言で受け取り、ハンガーに掛けて奥に座ってもらった。
以前のくせで、無意識に上着を受け取ってしまった。
そして、私も薄手の上着を掛けて、テーブルの反対側に座ろうとすると、
直角に「こっち!」と、隣りに座るように促される。
が、付き合っている恋人でもないし、今日は、話をしに来たのだから、「ううん」と、私は、律樹の正面に座った。
「フッ」と笑われた。
そして、律樹はメニューを広げて、
「何呑む? 生ビール?」と聞いてくれた。
「あ〜、うん」
一瞬、呑まずにシラフで話そうかとも思ったが、シラフで話せる自信などない。
とりあえず生ビールを1杯だけ呑もうと思ったのだ。
「後は適当に頼んで良い?」
と、手慣れたもので、私の好みも覚えてくれているようなので、と言うか、2人はいつも好きな食べ物が似ていたのだ。だから、律樹に任せた。
タブレットで注文してくれたようで、見せてくれる。
「他に食べたい物は?」
「大丈夫、ありがとう」
喉を通るかどうかも分からなかった。
すぐに、生ビールと枝豆が運ばれて来た。
「じゃあ、とりあえず再会に乾杯!」と言っている律樹。
コレが嬉しい再会になれば良いが……と戸惑いながら、とりあえず「「乾杯」」した。
律樹は、それを美味しそうにグビグビと呑んで、
「あ〜〜〜〜っ! 美味っ」と言った。
私もグラスに口を付ける。
「あ〜〜っ、美味しい!」
やっぱり仕事終わりのビールは、無条件に美味しい。
「みあり! ホントに美味そうに呑むよな」と言われた。
「喉渇いてたから! 律樹だって」と、思わず微笑んでしまった。
──ついつい以前のように戻ってしまう
そして、
「あっ」と、また黙り込んでしまった。
律樹は、そんな私の顔を見て、悲しそうに、
「なあ、みあり! ちゃんと話して!」と言った。
「何を?」と言うと、
「まず、どうして急に引っ越して、連絡を絶ったの?」と聞かれた。
そんなこと、言わなくても律樹も分かっていたはずなのに……
そのタイミングで料理が次々に運ばれて来た。
「まあ、とりあえず、先に食べようか?」と言う律樹、
「いただきます!」とお刺身を食べ始めた。
「ふふ」
まるで、お腹を空かしている子どもみたいで、
可愛いと思ってしまった。
昔からそうだ! 見てて気持ちの良い食べっぷりだもの。
「美味っ! 美味いから みありも食べてみ!」と言うので、
「いただきます」
と、言って私も舟盛りで来た中トロに箸をつけた。
「う〜ん、中トロ最高〜!」
何もかも忘れさせてくれる時間だ。
──このまま何もかもなかったことになれば良いのに……
そう思っていた。
注文した品物は、全て揃ったようで、
1つ1つ味わいながら、ある程度お腹が満たされると、律樹はお箸を置いて……
「じゃあ、そろそろ聞かせて!」と言った。
なので、私もお箸を置いた。
そして、
「私が律樹のそばに居ると、迷惑を掛けると思ったからだよ」と切り出すと、
「どうして迷惑になるんだよ! 俺は、みありとずっと一緒に居たかったのに……」と言った。
その言葉に、嘘はないと思った。
私だって、本当は、ずっと一緒に居たかった。
でも……
当時、律樹のご両親は、私の事をよく思っていなかった。やはり、孫の顔が見たかったのだろう。
子どもが産めない私に、用などない!
そう思われているのだと思った。
律樹は、私じゃなく他の
女と一緒に居た方が幸せになれるんだと思ってしまったから……
それに……他にも……
「ウチの親が反対してたから?」と聞かれたので、
「それが1番大きかったかな〜」と正直に言うと、
「そっか……ごめん! あの時、俺が親を説得出来なくて……。でも、みありのお母さんは、反対されてなかったよね?」と律樹は言った。
私には、父は居ない。
と言うか……
母は、父とは、私が幼い頃に離婚したようなので、ずっと会っていなくて私は全く覚えていないのだ。
なので、母はずっとシングルマザーとして私を育ててくれた。
「うん、そうだね……」
「あっ、お母さんは、お元気?」と聞いてくれた律樹。
「……去年、亡くなったの」と言うと、
「え?」と、律樹は、一瞬で固まった。
そして、
「どうして?」と、驚いた顔で私に聞いている。
「律樹と別れようって決めてから、すぐに母の病気が分かって……」
「そんな……」と悲しい顔をしてくれている。
「だから、丁度良かったの。母の介護もあったし……私、恋愛どころじゃなかったから、実家に帰ってたの」と言うと、
「えっ……」
律樹の知らない話ばかりで、困惑しているようだ。
どんどん暗い顔になって行った。
そして……
律樹は立ち上がって、私の真横に来て、
優しく私を包み込むように抱きしめてくれた。
「ごめん、俺、何も知らなくて……」と言っている。
その言葉に、一気に思いが込み上げて来て、涙が流れた。
「ううん……」と言うのが精一杯だった。
「1人で良く頑張ったね……」と、抱きしめながら背中を摩ってくれている。
もう、その言葉だけで充分だと思うと、涙が止まらず滝のように溢れ出た。
──あ〜〜私、誰かに褒めて欲しかったんだ
そう思った。
母は、病気が分かってすぐは、病院に入院していた。
しかし、もう手の施しようが無いと分かり、緩和ケア病院を紹介された。
転院したが、最期の最期は、家で過ごしたいと言った。
なので、最後の数週間ほどだったが、訪問看護師さんや介護士さんの手を借りながら私も頑張った。
仕事をしながらの介護は、想像を絶するものだった。
ましてや、実家から会社への通勤は、1時間ちょっとかかる。
以前住んでいた会社から近い賃貸マンションは、解約してしまっていたのだ。
律樹から身を隠すために……
なので、毎日の通勤だけでも疲れていた。
それに精神的にも、日に日に弱っていく母を見るのは、とても辛かった。
時々、有休を取りながら、なんとか凌いだが、
私の体力もそろそろ限界だった。
それが分かったのか、母は最期の日、救急車で運ばれて、病院に到着すると、そのまま眠るように逝ってしまった。
「1人で辛かったね」
律樹は、そう言ってくれた。
その言葉に、
「グッ、ウウウッ、うう〜〜っ……」
久しぶりに人前で泣いてしまった。
母のお葬式以来だ。
「みありは、いつも1人で頑張ってしまう所があるからな。頼って欲しかったな」とも言ってくれた。
別れているのだから、迷惑など掛けられないと思っていた。
だから、連絡もしないで、マンションを解約して出たのだ。
それっきり連絡も絶った。
まだ、私の実家へは、一緒に行く前だったから、律樹は私の実家の場所を知らない。
もう律樹には、会わない! と決めていたからだ。
しばらく泣いて落ち着くと……
「で、今はどこに住んでるの?」と聞かれた。
実家からの通勤は遠くて大変だから、実家はそのままにして、1人で又新しく会社の近くにマンションを借りていることを話した。
「そっか……なあ、みあり! 俺たち、もう一度やり直そう」と律樹は、言った。
母が亡くなって私は、1人ぼっちになってしまった。
でも変わったのは、それだけで、他はあの頃と何も変わらない。
だから、
「無理だよ……」と言うと、
「両親には、みありとの事、話したよ!」と律樹は言った。
「え?」
とても驚いた!
一体律樹は、私とのことをどう話したのだろう?
「その上で俺は、みありとじゃなきゃ結婚しない! って、宣言した!」
「!!!」
「他の人とだったら、もう結婚しない! だから、誰とも付き合わずに、ずっと みありの事を探してた」と言われた。
「……」
嬉しいのと、驚いたのとで言葉が出ない。
「そしたら、たまたま知り合いから、みありの会社への転職の話を貰って、即みありの事を確認した!」と言った。
まだ私が会社に在籍している事が分かり、ならば! と転職に同意したのだと言う。
「しかも、同じ工事部って?」と言うと、
「うん、毎日会えなきゃ意味がないからな! それに仕事は、現場を動かす方が好きだし、やり甲斐がある」と笑っている。
私は、「ご両親は、お元気?」と聞き返していた。
「あ〜たぶん」と言った。
「たぶん?」
律樹は、どうも家を出て1人暮らしを始めたようだ。
「え?」
とても驚いた。
「みありが見つかったら一緒に住もうと思ってたから自分でマンションを借りた」と笑っている。
──律樹が1人暮らし?
昔から律樹は料理をしなかった。
したことがないと言っていた。
他の家事も、1人で熟せているのだろうか?
と、私はそちらの方が気になってしまった。
「ご飯、どうしてるの?」と聞くと、
「料理は少しずつ始めた。まだまだ簡単な物しか作れないけどな……
平日は仕事から帰ったら疲れて、そんな気力もない。だから買って帰って簡単な物で済ませることが多いかな。
あ、でも休みの日は、色々作ってみた」と言う。
──どんな物を作ったんだろう? 上手く出来たのかなあ? 聞きたいことはたくさんあるけど、
それを聞いてしまうと、またずっと一緒に居たくなりそうで……
「そうなんだ。頑張ってるんだね」と言った。
「うん。ホントは、又、みありが作ってくれたら嬉しいんだけどな〜」と微笑みながら言う。
律樹は、実家暮らしだったから、以前私が住んでいたマンションによく来ては、一緒に過ごしていた。
私だって、あのまま一緒に過ごしたかった。
離れている間も、律樹のことを忘れたことなどなかった。
母の介護で忙しくても、ふとした時に思い出すのは、律樹のことばかりだった。
何度『会いたい!』と呟いたことか……
でも、いくら本人同士が良くても、家族に認めてもらえないと、未来なんてない。
そう思っていたから……
「みありは、俺のことを思い出だしたりしなかったの?」と聞かれた。
「……」
答えられない。
答えてしまうと、また、律樹を更にご両親から遠ざけてしまうことになる。
なのに、
「もし、両親のことを気にしてるなら、気にしなくても良いよ、もう既に避けてるから!」
と言われた。
「え!」
驚き過ぎて何も言えなかった。
心の中まで律樹に読まれている。
「もう宣言して家を出たんだから。それに、この2年俺は、みありだけを必死で探してたんだから」と言われて又泣きそうになった。
──でも、律樹がご両親を避けている?
家を出て、まさか一切連絡を取っていないのか?
ご両親、特にお母様は、律樹の言葉すら聞く耳を持たず、自分たちの都合ばかりおっしゃるので、ついに律樹は、家を出て1人暮らしを始めたんだと言う。
なので、家を出てからは、ご両親との連絡すら絶っているのだと……
律樹のお父様は、会社を経営されている。
私たちが勤める『金星建設株式会社』ほどは、大きくはないが、同じような建築関係の会社だ。
律樹は、いわゆる社長の息子なのだ。
律樹には、2歳下に弟さんが居るが、全く違う美容師の道に進まれたようだ。
しかも、『俺は一生結婚しない!』が口癖のようだ。
だから、ご両親にすれば、長男である律樹は大事な跡継ぎ息子なのだ。
私なんかと結婚してしまうと、子どもが出来ないので、律樹に継いでもらおうと思っていた会社の跡継ぎが途絶えてしまうと判断されたのだろう。
「だから、やっと見つけた! みあり! 俺と一緒に住もう!」と言う律樹。
私は、首を横に振った。
──そんなのダメだよ。和解しなきゃ。
それに、又すぐに探し出して、戻るように言われる。同じことの繰り返しだよ……
「俺は覚悟を決めて家を出た!」
「律樹は、そう思っててもご両親は違う! きっと又見つけ出して、家に戻されるよ。ちゃんと和解しなきゃ」
「いや! 俺はもう戻らない覚悟で、転職してこの会社に来た! これからは、みありとずっと一緒に居たい!」
気持ちは、嬉しいが、それじゃあダメだよ。
そんなの上手くいくはずなんてない。
私は、首を横に振り続けた。
「……そんなの、無理だよ」
「みあり! 俺じゃダメなのか?」
「そうじゃなくて……」
と、私は咄嗟に否定していた。
──あっ、今のは律樹への気持ちを認めたことになってしまったのかな〜
「ん?」と、少し喜んでいるように見える。
──好きだよ! 今でも好きに決まってる!
でも……
困った顔をしていると、
「分かった! 少しずつで良いから。俺は、又前みたいになれたら良いなって思ってるから」
と言う律樹。
私は、ただただ律樹を見つめることしか出来なかった。
笑うことも頷くことも出来ない。
あの時……
お母様から突然かかって来た電話の声が、今でも私の耳にこびり付いているから……
『律樹と、別れてください!』
私も律樹の為には、その方が良いんだと思ったから……
また、私は泣きそうになっている。
誤魔化すように、
「律が一方的に、連絡を絶っているだけなんでしょ?」と俯きながら聞くと、
「まあ、そうだけど、もし見つかっても、今のままなら俺は、あの家に戻るつもりはない!」と言う。
「いつ家を出たの?」と聞くと、
「今年の4月」と言った。
まだ半年だ。
そろそろ見つかる頃なのか……
いや、もしかすると、既に所在が分かっていて、1人で元気に暮らしているのを誰かが監視して報告しているのかも、と私は、ふと思ってしまった。
あのお母様ならやり兼ねないと思ったからだ。
大事な跡取り息子なのだから……
このまま放置するはずがない。